大方洋二の魚って不思議!

写真を通して魚類の生態や海について考える

あのころの主流は魚突き(1)

先日の全日本潜水連盟総会に出席された大部分の方は、連盟創立前後のダイビング事情を知らない世代だった。ダイビング界が歩んできた歴史を知ってもらいたいため、当時を振り返ってみよう。

ダイビングが一般的になり始めたのは60年代初頭。都内にダイビングショップが増え始めた。当時は現地ダイビングサービスはない状態で、都内のショップがタンクを積んでお客を海に連れて行っていた。したがってこのころは、ショップ=ダイビングクラブという形態だった。当時のダイビングの目的は、ほとんど魚突き(スピアフィッシング)。クラブ単位での魚突き大会が頻繁に行われていた。65年に出版された『シャーク・ハンター(鮫狩り)』(ベン・クロップ著、大崎映晋訳)が拍車を掛けた。

水中銃を持って潜るのは普通の時代だった(真鶴、66年)

 

当然全国規模の大会もあり、1967年には2回も。5月に全日本水中スポーツ連盟主催のスピアフィッシング大会が伊豆大島で開催された。当時はスポーツという意味合いだったようだ。

挨拶をする連名会長の舘石昭氏(中央)と大会出場の選手たち

 

21組が1チームで、同じダイビングクラブで数組のチームを結成した。波浮港からそれぞれ漁船に乗り、ポイントの差木地まで行ってエントリー。ぼくは記録係で、監視船に乗って適当なところで水中撮影するつもりでいたが、どの選手からも魚が逃げるから近寄るな、と言われていた。結局水中に入っても透視度が悪いうえ、目ぼしい人にも出会えず、写真は撮れなかった。

一斉に出航する選手たちを乗せた漁船

 

同年11月、ボイト杯争奪スピアフィッシング大会が伊豆大島で開催。ボイトとはアメリカの器材メーカーで、確か水中銃も販売していた。ボイト製品を輸入していた大沢商会が主催で大会が行われた。場所は野増漁港沖で、海岸からエントリーした。

開会式

 

このときも記録係で、やはり選手が潜っているそばには行けなかったが、大物を突いた選手が岸に上がって来た際、もう一度海に入って撮らせてくれた。

モロコを突いた選手

 

ダイビング仲間がスノーケリングで魚突きをするのに同行したこともある。神奈川県の諸磯で、近くにいた一人が大きなスズキを突いた。

ダイビングが普及すると同時に、事故や漁民とのトラブルが増え、このままではいけないと思った先輩たちは、日本で初めての潜水指導団体「日本潜水会」を立ち上げた。6712月のことで、後にアメリカからNAUIPADIも参入。国内でも関西や中部日本などに団体が誕生した。そして72年に4つの団体が一緒になって全日本潜水連盟(JUDF)が創立したのである。

スズキを突く(諸磯、67年)