大方洋二の魚って不思議!

写真を通して魚類の生態や海について考える

秀保さんとの思い出(2)

追い込み網の「講習」は確か2日間行われたが、その後漁業としては座間味で実践されることはなかった。当時の漁業組合員はダイビング事業者がほとんどで、本業が忙しくなったからだ。
 
追い込み網の「講習」でグルクンを捕る('70年代後半)
イメージ 1追い込み網をやらなかったのは正解だった。なぜなら、海中に網を張ったり、サンゴに引っかからないようにしたり、魚を追い込んだりの重労働のうえ、魚が網に入ると急浮上して引き揚げもしなければならない。まるで「減圧症になる方法」を実践しているかのようだったからだ。
 
 
 
 
 
 
ベルトでタンクを背負っている秀保さん('83年9月)
イメージ 2
BCがまだジャケットタイプではなくホースカラー(枠内)だったころ、タンクを背負うのにハーネス(背負子)が必要だった。ポイントに到着してハーネスが足りないことに気づき、秀保さんはウエイト用のベルトを巻き付けて潜った。これがそうで、場所はまだ無名だったニシハマのアザハタの根。
 
 
 
 
 
ぼくが撮った記念写真はこれだけ('90年12月)
イメージ 3
ある日、秀保さんが小ぎれいな格好で現れ、顔写真を雑誌に載せるので撮ってほしいという。これがそのときのもので、車の絵と文字はぼくが書いたもの。当時秀保さんから頼まれて、ボートや車に数えきれないほど描いた。だから島の人には、看板屋だと思われていたに違いない。
 
 
 
 
 
 
 
神田の居酒屋にて('94年12月)
イメージ 4
飛行機嫌いな秀保さんも、やむを得ず東京に出てくることがあった。必ず連絡してくれるのだが、待ち合わせ場所まで1時間かかると伝えると、そんなにかかるの?といつも不思議そうにしていた。距離的感覚が座間味バージョンのようで、阿真から阿佐までの距離より遠いところはないと思っていたようだ。
 
 
 
 
 
 
開洋丸の前で(('88年9月)
イメージ 5ぼくが座間味で他のダイビングサービスを利用しても、秀保さんはまったく気にせず接してくれた。その寛容なところも大好きだったので、いつか一緒に仕事をしたいと考えるようになった。
左は当時民宿のヘルパーだったやっゃん。後に民宿の息子と結婚。右はユキ坊で、当時は船持ちやガイドを手伝っていたが、1年後にダイビングサービス・ハートランドをオープンさせ、現在はレストランも経営している。