大方洋二の魚って不思議!

写真を通して魚類の生態や海について考える

東京マラソン2024

33日(日)東京マラソン 2024が開催された。近くの蔵前橋通りがコースになっている関係上、交通規制のチラシが配られるので何となく知っているが、さほど関心がなかった、昨年までは…。

東京マラソン2024のポスターとコース

 

今年は知人Nさんが出場すると年賀状に書かれていたので、沿道で応援すると連絡した。とはいえ、いつ通るのかがわからない。そこでいろいろ考えた。

その前に、東京マラソンについて認識不足だったようで、一般市民ランナーの祭典というイメージが強かった。仮装ランナーの報道を見たからだろう。しかし、今回はパリ五輪代表選考会も兼ね、世界のトップランナーが多く出場し、テレビ中継もあると知った。

910 都庁前をスタートした瞬間(日本テレビより)

 

スタート地点から蔵前橋までは20キロだ。Nさんは過去にも出場してるので、20キロは2時間半くらいとのこと。さらに浅草の折り返し地点で合図をしてもらうことにした。ただランナーはとても多く、特定のランナーを見つけ出すのは困難と判断したので、目立つ色のジャケットを着て公園入口で待ち、気づいたら手を振ってもらうことにした。テレビではケニアの選手が1位と2位で、2名とも2時間2分台と報じていた。それから30分後合図があったので沿道へ出た。ランナーのすごい数に驚いた。報道によると出場者は38000人だそうだ。外国人の姿も目についた。

蔵前橋通りの復路を走る大勢のランナー

 

12時ごろ、ついにNさんが現れて手を振ってくれた。ほぼ予定どおりだ。ここから清澄通りに入り、門前仲町富岡八幡宮で折り返し、再び蔵前橋通りに来る。往復約6キロ半なので、40分くらいだろう。

往路から気づいて手を振るNさん

 

13時少し前、Nさんが復路を走ってきて手を振ってくれた。ハイタッチをして、ゴールまで頑張ってと声援を送った。今回、Nさんを含む大勢のランナーの力走を目の当たりにし、みなぎるパワーをチャージすることができた。ありがとう、そしてお疲れさま!

頑張ったNさん

 

 

 



 

アデウツボについて

ウツボ科のアデウツボは全長約100cmになり、相模湾以南の西部太平洋、インド洋に分布している。あまり出会えないが、図鑑によれば100m前後の深いところに生息しているとのこと。日本に分布していることがわかったのは、80年代中ごろだった。口の中が鮮やかな黄色なのが最大の特徴。最初に出会ったのは奄美で、1999年のことだった。

最初に出会ったアデウツボ99年、奄美

 

口の中が黄色いことにも驚いたが、体全体が紫がかってきれいなので、それらを併せて和名が付けられたのだと思う。次に出会ったのは10年後で、柏島だった。撮影した水深は覚えていないが、20m前後だったような気がする。

柏島での初アデウツボ09年、柏島

 

水温が低い時期に奄美で潜っているとき、アデウツボを見つけた。水深は24mだった。このときはいろいろなアングルで撮ることができた。あえて口を閉じたところも狙った。

口を閉じたアデウツボ11年、奄美

 

本種は警戒心も縄張り意識も強いほうではない。したがって撮影しやすい。やはり鮮やかな黄色を見せてくれたときが、最も惹かれる姿だ。

魅力的なアデウツボ11年、奄美

 

2015年に柏島へ行ったとき、アデウツボがユリウツボと一緒にいると聞き、連れて行ってもらった。撮れはしたものの、前日は2種がもっと近寄っていたという。まぁ、それは運なのでしかたがないが、深いところに生息するウツボに、奄美柏島2度ずつ会えたことはラッキーとしか言いようがない。

アデウツボとユリウツボ15年、柏島

 

 

人気の被写体・ヨスジフエダイ

フエダイ科のヨスジフエダイは全長30cmになるようだが、通常見れれるのは20cmくらいのものが多い。千葉県以南の西部太平洋、インド洋に分布する。主にサンゴ礁の周辺で群れている。黄色味が強いため海中でよく目立つうえ、さほど警戒心は強くないので絶好の被写体になり、ダイバーの人気度は高い。

群れて行動するヨスジフエダイ(座間味、下はモルディブ

 

黄色地に水色の帯が4本入っていることが和名の由来で、さらに腹部の白い部分に茶色っぽくて細い線が数本あるのが本種の特徴。近似種のベンガルフエダイにはないので区別がつく。

ヨスジフエダイの特徴の腹部の線(座間味)

 

ヨスジフエダイを初めて見たのは、70年代後半の座間味島だった。ちょうど餌付けが流行り出したころで、冷凍サンマをエサにすると多様な魚が集まる中、ヨスジフエダイも来ていた。「漁礁」というポイントでは長年餌付けが続けられたので、メタボのヨスジも激増した。その後、餌付けは生態系に悪影響を及ぼすため、禁止になった。

丸々としたヨスジフエダイ(座間味、1989年)

 

ヨスジフエダイの幼魚は、転石帯の根の周辺に数尾で群がっている場合が多いが、一部は黒潮によって伊豆方面へ運ばれる。その年によって数が多いこともある。群れのものは、今見ると顔の辺りがベンガルフエダイのような気もする。1か月後に同じポイントで撮ったのが小枠の写真。こちらは明らかにヨスジフエダイだが、当時ベンガルフエダイを知らなかったので、ちょっとした違いに気づかず、今となっては後の祭り。

15cmの若魚の群れ(富戸、199810月、小枠は同年11月)

 

先述したように本種はさほど警戒心が強くないので、いろいろなアングルで撮ることも可能。真正面から狙ってもおもしろい。カメラを持ったダイバーをいろいろ楽しませてくれる魚だ。

正面から狙うのも比較的簡単(座間味)

 

 

 

 

 

第27回 写真展 「海で逢いたい」神戸展

標記の写真展が2/152/20までアートホール神戸に於いて開催中。

案内状

 

17日(土)見に行った。出品数は38点とかなり少なくなったものの、作品のレベルは向上していて。見ごたえがあった。諸事情により、神戸展は今回が最後になる。

会場の様子(1

 

写真の見せ方がいろいろある中で、組み写真も選択肢の一つということで、今回は、提案の意味で組み写真を出品した。左端の4点展示作そうなのだが、来月15日から東京展が開催されるので、そのときまでの楽しみにしていただきたい。

会場の様子(2

 

18日は神戸を中心に活動している「あでやっこ水中写真倶楽部」のメンバーが集まってくれ、元町にある知り合いのお店「Shima Nomi」でランチ会をしてくれた。そして4日遅れの誕生会も。たくさんのプレゼントをいただいて神戸を後にした。

いただいたプレゼント

 

 

 

あのころの主流は魚突き(2)

スピアフィッシング全盛の時代、素潜りで何度か水中銃を持ったことはあるが、水中カメラを使うほうが断然多かった。所属のクラブも写真や映像に力を入れていて、いろいろなカメラ・ハウジングを揃えていた。16mmシネグループもあり、わりあい安価に動画も撮れた。ニコノス以外のカメラはすべて借りていた。 

ニコノスブロニカ16mmベルハウエル、ローライマリンで撮影中(6873年)

 

この当時撮った写真がアルバムに貼ってあった。クラブのツアーで赤根崎に行ったときのものだ。K君とM君と3名で別行動をして被写体を探した。そのときの様子をK君が撮っていた。

右がぼくで、ダブルホースレギュレーターのM君(K君撮影、67年)

 

しばらくして、弱っているようなクラゲを見つけた。近寄ると小魚がたくさんついていたのでカメラを向けた。

クラゲを狙うぼくとM君(K君撮影)

 

このとき撮っていた写真がこれ。そしてM君はぼくのほうに近づいてくる。

クラゲと小魚越しのM

 

1mくらい近寄って来たことで、迫力ある写真になった。こうして順番に見ていくと、50数年前でアマチュアだったにもかかわらず、撮り方や見せ方がいかにもジャーナリスト的で、我ながら驚いた。

最終的なクラゲとダイバーの写真

 

 

あのころの主流は魚突き(1)

先日の全日本潜水連盟総会に出席された大部分の方は、連盟創立前後のダイビング事情を知らない世代だった。ダイビング界が歩んできた歴史を知ってもらいたいため、当時を振り返ってみよう。

ダイビングが一般的になり始めたのは60年代初頭。都内にダイビングショップが増え始めた。当時は現地ダイビングサービスはない状態で、都内のショップがタンクを積んでお客を海に連れて行っていた。したがってこのころは、ショップ=ダイビングクラブという形態だった。当時のダイビングの目的は、ほとんど魚突き(スピアフィッシング)。クラブ単位での魚突き大会が頻繁に行われていた。65年に出版された『シャーク・ハンター(鮫狩り)』(ベン・クロップ著、大崎映晋訳)が拍車を掛けた。

水中銃を持って潜るのは普通の時代だった(真鶴、66年)

 

当然全国規模の大会もあり、1967年には2回も。5月に全日本水中スポーツ連盟主催のスピアフィッシング大会が伊豆大島で開催された。当時はスポーツという意味合いだったようだ。

挨拶をする連名会長の舘石昭氏(中央)と大会出場の選手たち

 

21組が1チームで、同じダイビングクラブで数組のチームを結成した。波浮港からそれぞれ漁船に乗り、ポイントの差木地まで行ってエントリー。ぼくは記録係で、監視船に乗って適当なところで水中撮影するつもりでいたが、どの選手からも魚が逃げるから近寄るな、と言われていた。結局水中に入っても透視度が悪いうえ、目ぼしい人にも出会えず、写真は撮れなかった。

一斉に出航する選手たちを乗せた漁船

 

同年11月、ボイト杯争奪スピアフィッシング大会が伊豆大島で開催。ボイトとはアメリカの器材メーカーで、確か水中銃も販売していた。ボイト製品を輸入していた大沢商会が主催で大会が行われた。場所は野増漁港沖で、海岸からエントリーした。

開会式

 

このときも記録係で、やはり選手が潜っているそばには行けなかったが、大物を突いた選手が岸に上がって来た際、もう一度海に入って撮らせてくれた。

モロコを突いた選手

 

ダイビング仲間がスノーケリングで魚突きをするのに同行したこともある。神奈川県の諸磯で、近くにいた一人が大きなスズキを突いた。

ダイビングが普及すると同時に、事故や漁民とのトラブルが増え、このままではいけないと思った先輩たちは、日本で初めての潜水指導団体「日本潜水会」を立ち上げた。6712月のことで、後にアメリカからNAUIPADIも参入。国内でも関西や中部日本などに団体が誕生した。そして72年に4つの団体が一緒になって全日本潜水連盟(JUDF)が創立したのである。

スズキを突く(諸磯、67年)

 

 

全日本潜水連盟 総会

210日(土)、一般社団法人 全日本潜水連盟 会員総会が両国の国際ファッションセンターに於いて開催された。潜水指導団体そのものは自身の仕事とは直接関係なかったため、委任状を書いて欠席することが多かった。だが、数年前に講演を依頼された関係もあり、出席するようになった。今回も永年功労者として表彰があるとのことなので、出席した。

総会の様子

 

理事長の挨拶から始まり、昨年度の事業報告、収支決算報告、今年度事業計画案、予算案などが報告・協議された後、役員改選が行われ、今年度からの役員の紹介があった。そして、永年功労者の表彰。1972年全日本潜水連盟(JUDF)の創立以来、会員を続けている9名が対象者だが、今回出席したのはぼくと大阪の山本進氏の2名だった。

新役員の紹介

 

総会が終わってから集合写真を撮ったのだが、以前と比べると出席者が減少している。コロナ禍以来、オンラインでの出席もできるようになったこともあり、遠方のメンバーはわざわざ会場へ来る必要はない、という事情もあるようだ。

集合写真

 

総会終了後は会場を移しての懇親会。ふだんあまり会えない人とゆっくり話し合える時間だ。奄美や沖縄から出席したメンバーもいるので、最新の情報を聞いたりもした。こうして総会・懇親会は楽しく閉幕した。

懇親会の様子