終戦から75年。多くが戦争を知らない世代になった。疎開して防空壕を体験、東京大空襲で生家を焼失した者としては、戦争の悲惨さを伝える義務がある。といっても大袈裟なことではなく、海で見た戦跡を取り上げて回顧してみたい。
太平洋戦争初期、日本軍は東南アジア、パラオ諸島、マリアナ諸島、パプアニューギニア(PNG)などに侵攻して軍事基地を作った。だが、米軍の反撃によって各地で激戦が繰り広げられ、その結果、戦闘機や軍艦が海に沈んだ。PNGのラバウルにも日本軍基地があったため、戦跡が多い。
ゼロ戦といわれているが、定かではない(PNGキンべ 02年)
マリアナ諸島のサイパン、トラック(現チューク)、グアムなどは1944年に陥落し、その後米軍がサイパンなどに飛行場を整備し、日本本土空襲の基盤にした。
沈んだ飛行機もダイビングスポットとして人気(サイパン、78年)
太平洋戦争前から小笠原の父島や硫黄島は、本土防衛の重要拠点として要塞化された。44年にマリアナ諸島の占領に成功した米軍は、日本をさらに効率よく攻撃するため、今度は硫黄島を標的にした。距離的に近く、滑走路もあって空襲しやすいからだ。硫黄島の激戦は有名だが、1945年3月に日本軍玉砕。日米合わせて約28000名戦死した。硫黄島占領後、米軍は沖縄に向かったため、小笠原は直接の攻撃は避けられたらしい。
すりばち山が特徴の硫黄島。ピースボートの船旅で近くを通った(98年)
小笠原が返還になったのは1968年。2年後、まだ受け入れ態勢が整う前に漁船をチャーターして小笠原へダイビングに行った。漁船に寝泊まりする予定だったが、台風直撃で公民館に避難。潜れたのは、湾内の沈船でのみという苦い思い出。
沈船でのワンダイブ(70年、小笠原)
パラオ諸島やマリアナ諸島、そして硫黄島が米軍に陥落され、最後の砦となったのが沖縄だ。沖縄戦で多くの民間人が犠牲になったが、当初米軍は日本軍のみを標的にしていたらしい。しかし日本軍は、沖縄の人たちに「米軍は鬼畜」、行動を共にすれば安全と説いた。そのうえ民間人になりすましてゲリラ戦をしたため、米軍は攻撃対象を広げざるを得なかったようだ。
慶良間諸島の「サクバル」に残る機関銃?(慶良間諸島、09年)
戦争末期、日本軍は震洋(しんよう)という特攻艇を作り、フィリピンや小笠原、沖縄、鹿児島など147か所に配備。奄美・加計呂麻島の呑ノ浦に第18震洋隊が配備された。震洋は約5mの木製(金属製も多少作製)モーターボートで、舳先に弾薬を搭載して全速力で敵艦に体当たりする。奄美の震洋は出撃前に終戦になったため、使われなかったが、格納壕はいくつも残っている。
8月15日が「終戦記念日」とされているが、敗戦を認める「玉音放送」があったからだろう。「終戦」は、戦った国同士が講和条約に調印して成立するものなので、正しくは9月2日になる。また、戦争の悲惨さを後世に伝えるには、「敗戦の日」のほうがふさわしいと思う。